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1月, 2025の投稿を表示しています

一人旅縁 - 明日への入り口

  夕日は明日への入り口 夜のはじまりを彩るひととき 星々を迎える宴  セントキルダビーチの桟橋にあるベンチの小窓から覗いた夕焼けを撮影した一枚です。桟橋を海の方へ歩いていくと、レストランがあったりフェアリーペンギンやrakali(オオミズネズミ)といった野生生物が生息しているスポットがあったりで、夏場はビーチで泳ぐ人や憩う人マリンスポーツを楽しむ人にとどまらず、多くの人が集まるような観光名所なのです。シーズンオフになると穏やかさを取り戻すものの風の強い日が多く、そんな日にはウィンドサーフィンを楽しむ一行の姿を見かけていたように思います。夕暮れ時には、私のように散歩している人、釣りをしている人、波止場に座ってただただ海を眺めている人と、潮風と水平線をこよなく愛する人たちが憩うようなところです。住んでいたところから近かったり、引っ越してからも仕事の帰りに寄り道したり休日を利用して向かったりと、時間があれば通っていた思い出があります。  2024年12月に新しい桟橋がオープンし古い桟橋の撤去が始まったそうなのですが、とすると、同じ景色はもう見られないのかなぁと思う反面、次に訪れたときにはこれまで見ることのできなかった景色が見れるのだろうなとワクワクする気持ちにもなりました。生態系をまもるために人も街も変わり成長して行く必要があるのだなぁとそんなことを思いました。   参考URL Parks VICTORIA

一人旅縁 - アボッツフォード - オーストラリア ビクトリア州

かつての散歩道で見上げた空と木々。 微動だにしません とても幸せそうに眠っていましたその口元をパシャリ 一望しきれない広さのヤラ・ベンド・パーク オーストラリアの写真家Jesse Marlow氏のトークをお聴きしてインスパイアされた当時の一枚  アボッツフォード・コンベントという修道院周辺に住んでいた頃に見ていた風景です。  修道院周辺にはこども牧場があり、馬や牛、そして、羊が放牧されているようなのんびりゆったりとした光景が広がっていました。遊歩道は、ヤラ川がくねりくねりと流れるその名もヤラ・ベンド・パーク( Yarra Bend Park )という自然公園にもつながっているあまり境目を感じさせない素敵なつくりなっていて、この周辺の遊歩道を通って自然公園を歩きながら景色を楽しむのが好きで、毎日のように散歩を楽しんでいたのを思い出します。当時の日常も今となっては旅の一部として懐かしく思い出されます。 現在はどんな光景を見せてくれるのでしょうか。 旅の思い出

一人旅縁 - トラファルガー - オーストラリア ビクトリア州

 なぜ、この場所を選んだのか。今となっては覚えていないのですが、長距離列車V/Lineでメルボルン中心部から2時間ほどのトラファルガー( Trafalgar 地図 )というところへ日帰り旅行をしました。帰国前に行った レイクス・エントランス の一つ前の旅でした。Googleマップで見ていて気になった駅周辺にあった町の史料館を訪ねたのですが、その日が閉館日だったようです。「今日はお休み」の閉館日ではなく、閉館したその日だったのです。   そうおっしゃった受付の方に、私が日本から来て写真の勉強をしていること、日本に帰る前に旅行に来たことを話すと、受付の方が事務所に案内してくれ色々話を聞かせてくれたのはこの土地だったと思います。細かいところは力不足で理解できませんでしたが、資料の整理をしながら、町や人の様子を撮影したダゲレオタイプの写真をデジタルアーカイブしているのだというお話でした。パソコンに取り込まれた編集中の写真を開いて見せてくださったり、もう使わないからと町の人が持ってきてくれた二眼レフのカメラなんかも見せてくださいました。  事務所の雰囲気を堪能したのち、お礼を言って出発。プランBを立てていなかったので、この後はノープランでした。まっすぐ歩きまっすぐ帰ってくれば道に迷うこともなかろうと、駅からまっすぐ伸びていた道を歩いてみました。住宅地を抜けて放牧地をわき目に道路を歩いていきました。あまりに広い土地で、周りに高い山があるわけでもなかったので、遠近感がわからなくなるような空間が広がっていました。  牛や羊の存在に気づくのにもしばらく時間がかかりましたが見渡す限りの牧草地に時折、乾いた木々が硬い葉を茂らせてポツリポツリと並び立っています。そのあたりにある井戸らしき場所に乳牛が列をなして向かい、輪になって給水する様子をしばらく見ていました。ふと後ろを振り返り辺りを見回すと、野生のベリーが当たり前のように実を付けていたり、倒れそうで倒れる気がしない粘り強さを醸している木が生えていたり、見上げたその奥には人が住み始める前から土地を見守ってきたような周囲の木々とは打って変わって瑞々しい印象の巨樹が見えたりと、オーストラリアの草木を存分に堪能させていただいた散策でございました。   牧草をはみながら牛や羊は何を思うのでしょうか。   旅の思い出

一人旅縁 - レイクス・エントランス - オーストラリア ビクトリア州

  2013年、数年滞在したオーストラリアから帰国する前に少し旅行をと思い、長距離列車でメルボルンのサザンクロス駅から3〜4時間ほどのところにあるLakes Entrance(レイクス・エントランス)というところへ行ってみました。最寄りの駅までは列車で、途中からバスに乗って目的地へ。切符は窓口で購入。長距離の割にはやたらめったら安かったような記憶があるのですが、確か往復で30AUD(当時のオーストラリアドルは1ドル=80円くらい )もしなかったように思います。宿もユースホステルを利用して、ホストの方のご家族の自転車をお借りして散策させていただいたのを思い出しました。  Canon 550D (EOS Kiss X4)で撮影。海岸線と灌漑のための人工湖が並行している今までに見たことのない地形でした。空も広く、夜は満天の星空。初めて天の川を目の当たりにし、しばらく座って眺めたときのゆったりとした時間は今でも忘れられません。一人でいるのにひとりじゃない。空全体が話しかけてくれているような不思議な感覚でした。  もう一つ忘れられない昼の光景は、空を飛ぶペリカン。商店街の魚屋さんで Fish&Chips をいただいたあと、湖の方へと向かっていたら、わっさわっさと羽を羽ばたかせてゆったりと目の前を通り過ぎる大きな鳥。 「あ、ペリカンだ。え、ペリカン!? ペリカンが飛んでいる!!」 と、時間軸と空間がぐわんと歪んで現れたような感覚を味わった瞬間でした。  湖に着くと、街中では見ることのない白や黒の水鳥もいて、オーストラリアの自然の豊かさを味わうことのできた旅でした。夏はリゾート地として賑わうところだそうですが、オフシーズンのこのときは、とても静かでゆったりとした穏やかな時間が流れていました。 旅の思い出。

一人旅縁 - 花と緑

Film: FUJICOLOR 100  Film: FUJICOLOR 100  Film: FUJICOLOR PRO400H  

Moto g24で撮影して思ったこと

 タップ一つでここまでのクオリティを発揮してしまうMoto g24のカメラ機能に驚愕した2枚を共有しておきます。夕暮れ時の倉敷美観地区の川沿いに佇む建物を撮影しました。HDR機能をオンにしていたこともありこういう仕上がりになりましたが、ライトアップの照明がかなり明るかったので日中と同じ感じでタップを押してからの出来上がりもスムーズ。カメラ撮影を楽しむインバウンドの方もよく見かけました。スマホ写真は綺麗で記録媒体としては完璧だと思いますが、印象とか遊べる余白を与えてくれるのは私にとってはやはりこちらだなぁと、今朝の景色をGFX50S IIで撮影しながら思いました。

フィルムで見るお花 - マーガレットだと思っていた花はカモミール

 島根県邑智郡邑南町(おうちぐん おうなんちょう)にある香木の森にて、花壇の花を眺める。マーガレットが日の光を浴び咲いていると長年思っていたのだけれど、どうやらこの花はマーガレットではない。同じロールの写真の中でも、この一枚はなんか違うなぁと思っていた。でも何が違うのかが分からなかった。今改めて枝葉をよくみてみると、これはカモミールではないか。花弁が白くて真ん中が黄色い花は当時の私にとってはどれも「マーガレット」だったのかもしれない。渦中にある時には気づかないけれど、ひと段落したときに色々と気づくことがある。10年前には分からなかったことが、今になってみると理解できその当時の自分の行動を反省したり納得したりする。    今月はカタログの整理をしていていた。2012年から撮影した写真を改めてみていると、撮影したものの当時の私には手がつけられず諦めてしまった写真が多くあることに気づく。10%の編集で済むものはもう寄稿してあるのだけれど、大幅に切り取ったり、極端に色味を整えたり露出を調整したり、視界を遮るような要素を取り除くといった作業をする必要のあるものは置いてあった。そういった写真は、最終的に私が正確な色だと思っている色は出ないとしても、それはそれで味わいのある一つになるものが出来上がる。こういう色もある、と一つ答えを出せるような時間だった。いつか誰かの目に触れる日を楽しみに、また一つ進む。

光と影04 - ひとつになる

 一言ではなんとも言い表せない気持ちというものがある。その一言は浮かぶものの言葉に出してしまうとなんだか違う。いや、そうじゃないんだよでもこの言葉しか浮かばない。いやでも、もっとふさわしい言葉があるはずなんだよ......と、思いつつも、自分の語彙力のなさに絶望したくもないので、結局その言葉を放っている。その瞬間、「あ〜この語彙力なんとかしたい、なんとかならんかな、あぁこう言えばよかったんだ〜......」と、心の中で同時進行の反省会をしていたりする。  「写真に言葉はいらない」と思っていた時期もあったが、今となっては、写真は言葉があって初めて成立するものだと思っている。それは撮影者本人が語るものでなくとも、写真自体がみる人に語り始め、みた人自身の物語がそこから始まったり拓けてゆくきっかけとなったなら、その写真はアートであり言葉を持つ存在だといつからかそう思うようになった。  写真は真(まこと)を 写す(うつす)と書く。一方英語では、写真を Photography(フォトグラフィー) というが、辞書をみてみると、" photo "は「写真」のほかに「光」の意もあり、また、" graphy "には、「書法、画法、記述法、....術、…学」(ウイズダム英和/和英辞典・三省堂)といった意の要素がある。これを踏まえて写真が「まことの光を捉える画法」であるという前提で作品をつくるとすれば、芸術 " art "(アート)にも美術 " fine art "(ファインアート)にもなり得るのではないかと思っている。デジタルでもアナログでも、それが画像表現という平面であっても、物質として手に取り見ることのできる色や形のある立体物であっても、淀みを払った心、本心を以てつくられたものは美しい芸術作品だと私は思う。 冬の黄昏時、鉢植えのシェフレラに注ぐ光を捉える。  

光と影03 - 朝の光

 雪が降り続く時はじっと静かに部屋で過ごすものの、雪が止んで雲間が晴れた時に見る雪景色というのは、なんとも心安らぐ光景だ。澄んだ空気、冷気すら心地よいと感じるのは太陽のエネルギーを全身で感じ取っているからだろうか。雪国に暮らしたことはないからそう思うのかもしれないが、雪のある風景に憧れがある。終わらない夢と取り留めもない思考がふと落ち着きを取り戻すのと同時に、ふっと心に光が差し込むような瞬間が味わえるような毎日を想像してみる。  しんしんと降り積もる雪、暖かい暖炉、薪が燃えパチパチを音を立てている空間、ストーブでは前日煮込み始めた鳥手羽と野菜のスープが鍋の中でコトコトと踊り、時が来るのを待っている……。  こんな時、ふと思い出すのは我が家の太陽光パネルのこと。雪が積もったということは、パネルにも雪が積もっているのだろう。やっと太陽が出てきたのに、パネルは雪で覆われているなんてなんだかもったいないなぁと思ってしまう。ワイパーがついているとか、温水が流れるとか何かパネルが常に太陽光を受信できるシステムでもあればなぁと思うけれども、ワイパーも温水も零下の中では無力だよなぁと、思いを巡らせてみるけれども、結局「これだ!」という答えに辿り着くこともなく再び思考は別のことへと移りゆく。  ミルクティーを淹れよう。

光と影02 - モノクロの世界

  色の無い世界で唯一彩りを見せてくれるのは光の階調。写真の授業で初めて習ったのは、アンセル・アダムスが提唱した7段階のグレースケールだったことを思い出す。光の明度を6〜7つの段階に分け、世界を見ていくものだが、さらに細かく分けるとどうなるだろうか。どこに基準を置けば、この世界の全体が映し出されるのだろうか。白でも黒でもない真ん中のグレーを定めると、自然と全体がバランスをもって見えてくる。  当時の講師の中に、美しいモノクロプリントを作り出す人がいた。 Silvi Glattauer (シルヴィ・グラッタウアー)というアーティストだ。学校の廊下に飾ってあった彼女の作品に釘付けになった。マーガレットの花頭が3つか4つ、平らな台の上に並んでいる静物写真をコットンペーパーに印刷してあるのだが、これが平面の作品とは思えないほどの立体感を醸していた。  ハイライトは黄色味のある光で、黄色の上に黒が乗っているので、マットブラックというよりはチャコールブラックのような感じだったと記憶している。コントラストの高い白黒写真は見たことがあったが、ここまで明度の表現が豊かなモノトーンの作品は初めてだった。印刷にもいろいろ手法があるが、プリンターでデジタル印刷したようには思えない。今年になって改めて彼女のSNSをフォローし始め、印刷の手法が Photogravure (グラビア印刷)だということを知った。彼女から印刷を学べるのは、2年目からだったので、1年でコースを終えてしまった私の唯一の心残りになっていたが、印刷のワークショップやアーティストレジデンスをなさっているとのことで、まだ学べる可能性はある。私でなくとも、もし、この投稿をお読みのあなたがアート印刷を学びたいというアーティストなら、本当にお勧めしたいと思う。  写真の世界に入る段階でスタジオ写真、フィルム現像は体験してみたが、私の身体には合わないようで体調を崩してしまった。食生活の改善を試みてわかったのは、私の身体は化学薬品や人工のものに影響を受けやすいということ。そのことがわかってからは、屋内外問わず自然光を活用してデジタル撮影するという今のスタイルをキープしているものの、憧れは果てしないものだ。写真はフィルムが好きだし、私がコレクターだったら、一番に彼女の作品を購入しているだろうなと、これもまた憧れになってしまうのだろ...

写真紹介 - 光と影 – シェフレラの葉01

 

一人旅縁 - 鳩が舞う空

 年末、名古屋へ。  当初は18きっぷを利用して再び在来線でチャレンジしようと思っていたのだけれど、年末の混雑具合を想像して怖気づき、一晩で到着する高速バスから各駅停車の新幹線こだま、ひかり、さくら、そしてのぞみへと検討が移行し、結局、全席指定ののぞみを予約し、新幹線で向かうこととなった。  駅に到着すると早速のお手洗いラッシュ。外にまで行列が続いている。手を洗い待合室に向かうと、こちらは通常より本数が多いためか入れ替わりが早い。すんなりと席につき、発着の時間とホームが表示される掲示板を見つめたり本を読んだりしているうちに時間が過ぎた。そろそろ出発だ。ホームに着くと、すでに予定の列車が停車していたので、乗り込むことに。隣は空席。周りはほとんどが諸外国の方々。日本も多民族が当たり前になったんだなぁと、新大阪駅で乗り込んできた乗客でこの車両の席は私の隣の席以外はすべて埋まったようだ。  名古屋駅に着いても、その印象は続き、向かう先々には多言語が響いていた。  一日目は大須通りを、二日目には大須通から大須観音を参拝した。名古屋駅から歩いた時には途中に教会があるのが見えた。JR鶴舞駅から歩いた時には曹洞宗のお寺を見かけたので、この通り周辺は多宗教がそれぞれの神や仏様を祀って一つの街を形成していることになる。なんだかすごいところだなぁと、大須神社の門をくぐると、境内で鳩の群れが観光客から餌をもらっている光景に出会った。鳩に餌をあげたり記念撮影をしたりとそれぞれの時間を過ごしている。お堂の階段に並び参拝した時も、お経が響き渡る中、日本語・中国語・各国の言葉が参列者から聞こえていた。賽銭箱の近くには一応、参拝の作法を書いた案内板はあったものの、各々の礼儀作法をもって参拝しているようだった。この自由さがなんだか心地よい。  参拝を済ませて階段に差し掛かったところで境内を見ると、餌をついばんでいた鳩が見当たらない。見当たらないが、羽音が聞こえる。上を見上げると、お堂の上空を鳩の群れが飛んでいる。羽ばたいたかと思うと、屋根に戻り、屋根に停まったかと思うとまた羽ばたく。澄んだ青空のもと、鳩の群れがお経に合わせて旋回する光景は私たち旅人を思わせた。  空も大切なことも一つ、別々に見えても繋がっている - そういう思いや願いが溢れる場を体験し実感できた旅だった。